大阪生活

大阪生活の記録

酒の席について

酒と会社員は切り離せないもので、けれど毎日のように飲み続けるとすぐに体を壊すことになるので、自分なりの適当な距離を置きつつ付き合わないといけない。良い酒の席に巡り会えればそれは幸せであり、殊に若手となると酒の席の多くは上司の説教を聞いたり酷く抽象的なアドバイスを聞く側に回ることになる。

その反面、気の合う友人と飲む酒のうまいことといったら!この前同期たちと肉を食べながら飲んだあの数時間は忘れがたいものだったし、東京で古い友人と飲んだあのハブは忘れないだろう。結局のところ、アルコールで対人スキルに下駄を履かせても気が合わない人と数時間向き合うのは難しいんだな。

当たり前のことを改めて実感した。

それはそうと仕事は嫌い。

早く寝れば早起きできる

そんなことはない。

昨日は9時半にベッドに入った。30分も経たないうちに意識を失ったらしい。午前3時頃に一旦目が覚めた気がする。トイレに行って水を飲んで再びベッドに潜り込む。朝6時に目覚ましが鳴ったのですぐに止めて再び意識を失う。最終的に6時50分に起床し、歯を磨き顔を洗いトイレへ行き7時10分過ぎに家を出る。

早く寝てもいつもより長い時間寝るだけで結局目が覚める時間は変わらないという何度目か分からない結論を得た。今日は月曜だし早く寝て明日に備えよう。労働者は仕事のために体調を整えるので。

春が来た

今はちょうど山陽新幹線に乗っている。二年前の春から、それこそ長期休暇を除けばほぼ毎週のように新幹線に乗ってきた。新幹線はとても速い。新大阪から岡山まで一時間も経たないうちに到着できる新幹線だが、車で移動するとしたらそれこそ倍以上の時間と三倍以上の労力がかかる。

岡山を出て五分くらい経った辺りでは田畑の間にポツポツと立っている煙突が見える。ここにはずっと昔から続く備前焼の窯元があるんだ。最後に土に触ったのはいつだろう。少なく見積もっても十年間は触れてない。

季節は春、ようやく春が来た。今年の冬はヒートテック無しで越すことができて嬉しい。きっと去年の冬着たヒートテックは、ぼくのベッドの下辺りにごそっとまとめて置いてあるはず。最近は朝から晴れることが多くて、起きたときに薄っすらとカーテンから青空の色が透けて見えることもある。そういう朝は部屋の空気を入れ替えて、四年目に突入したティファールでお湯を沸かし、コーヒー豆を挽いちゃったりしたくなる(挽かないけどね)。

大阪に来て四年が経つ。大阪生活にも慣れた。土地勘が付いてきたし会社にも慣れた。毎朝惰性で御堂筋線に乗ってるし会社まで何も考えずに辿り着くこともできるようになった。何より、新幹線で寝落ちしてもちゃんと新大阪か岡山に着く頃には眼が覚めるようになった。幸いまだ新幹線で寝過ごしたことはない。

最近は虚しくなることが増えた。結局何もできずにこの歳になった。ごく普通の社会人、それもあれだけ忌み嫌っていたサラリーマンに順応していて、世間的に見れば普通以上の生活を送っている。きっとそれは見る人が見れば羨ましいものだろうとも思う。金が無いわけではないし仕事もとっても嫌なわけじゃない。数十年前のサラリーマンが抱えるものと同じような悩みを抱えて、けれど時にはセコく仕事してる。月曜朝は憂鬱で金曜夕方はウキウキしてる。つまんねぇ人間だよ。

昨日今日は悲しみがエゲツなかった。なぜだか知らないけど、こんな春の陽気と桜に満たされた幸せな空気感が楽しめなかった。特に出張では食べ物に頓着しないからか、ただ腹を満たして寝るだけの生き物になっている。悲しい。とても悲しい。昔って何が楽しかったんだっけ。

新たな一年

目覚ましが鳴る午前6時半。カーテンの隙間から明るい光が差し込んでいた。飯を食う前にカーテンを開ける。どうやら今日は晴れらしい。世間は新元号の予想で盛り上がっているようだ。

七時になる。まだ毛布に包まって身動きできない。deadlineは7時12分。あと8分のうちに身なりを整え家を出ないといけない。間に合うかな。

沈む

最近沈みがち。自分の能力は明らかに低い。その差を埋めようと挑戦するが途中で見かねられて交代するので結局経験値は低いままだ。仕方ない、自分が悪いんだから。昼間が元気だっただけに余計落ち込んでしまう。この時間になると特にそうだ。

ここに書いたからって何も変わらないことは知っている。行動するしか解決策はない。けれど一歩踏み出せない自己嫌悪のスパイラルで結構ひどい状態だ。最近あまり良くない状態だ。自分でも知っている。夜だから、陽の光が無いからこんな精神状態に陥るんだ。夜のせいにして今日はもう寝よう。明日も24時間、明後日も24時間。

コストコのピザ

スーパーでコストコのピザを買った。たまたま入ったスーパーでコストコフェアが開催されていたから。ご存知の通りコストコのピザは大きくて安い。僕が巡り合ったピザは1600円の4割引。たぶん1000円程度だろうというアバウトな計算を脳内で済ませてから買うか否かを考えた。ピザは余りにも大きく、箱のままではとても冷蔵庫で保管することはできない。魚貝類の載せられたカラフルなピザの賞味期限はその日の24時。だとするとラップに包んで冷凍するか、一回で食べ尽くすかの二択になる。ピザは一回り大きな四角い箱に入っていて、売り場にはもう一つしか残されていなかった。いや、正確には目の前で一枚持ち去られたから残り一つになったと言うべきか。

午後5時過ぎの時点で残り一つになったピザ。だんだんとピザが可哀相に見えてきた。あと数時間も経たないうちに処分されてしまう大きなピザ。朝はあんなにたくさんの仲間と一緒に並んでいたのに、たまたま一番下に居たせいで君だけ売れ残ってしまったなんて。ここでぼくが買わなかったら、有象無象と一緒にポリ袋に詰められ翌朝のゴミ捨て場に並ぶんだろう。

数分後、ぼくは大きなピザと横に置いてあった同じく大きなティラミスを両手にスーパーをニコニコで後にした。幸いお腹は空いているし、ピザは食べきれなくても翌朝温めれば食べれるだろうし。ティラミスはよくわからないけど甘いから好きだし。バスに乗るほどではないけれど相当に遠いスーパーで買ってしまったから、家までの道のりは30分近くかった。練習帰りにこの大荷物はしんどい。

さてその夜、見事に一枚のピザはお腹に収まっておりました。自分の顔と同じくらいの熱々のピザを口いっぱいに頬張れるのは幸せだ。横にあるタバスコをこれでもかとピザに振りかけて味の変化を楽しむこともできるし、素材の味を楽しみたければそのまま食べることもできる。ピザで頭がいっぱいになってたからビールを買い忘れたのが痛かったけど、きっとビール飲んでたら食べきれなかったからヨシ。大きなピザが入っていた段ボールは小さく折りたたまれて翌日のゴミに出すとしましょう。さてティラミスも食べますか、といったあたりでとても眠くなり、なんと9時半に寝ました。

朝起きるとチーズの付着したピザの箱、中身の残ったマグカップ、ピザの脂の付いた日経新聞、ありとあらゆるものがそのまま保存されていた。祭りの後というか、楽しかった昨晩の思い出のようなものが残されていた。そうしてぼくはティラミスを少しだけ気分が悪くなるほど食べてからワイシャツに袖を通し、当日着任予定の新人はどんな人だろうかと思いを馳せながら歯を磨いた。そうしてジャケットの上からマウンテンパーカーを羽織って、しばらく手入れしていない革靴を履き、鍵と定期を確認して家のドアを開けた。今週もやるしかない。

ないものねだり

昔から兄弟でいろいろと比較されてきた。身長、体重、友人の数、学校の成績、趣味、その他諸々。そのせいだと思うが、ぼくは家族に対して誰一人として良い感情を持っていない。常に社交的な弟と比較され、尽く卑下されてきた。23年間も。そのせいで実家の居心地は最悪だった。そう、なので大阪に来てからはそういった人たちと地理的に距離を置けて、心の底から実家を離れられてよかったと思っている。もう二度と帰りたくない。

そもそもいくら兄弟だろうと別の人間なんだから比較することは止めるべきで(とは言うものの確かに社交的なことは褒められることだろうけど)、非社交的な人間に対してもっと弟のように社交的になれと叱りつけるのはナンセンスだ。別の人間なんだから。家族の誰がどうなろうが(生きようが死のうが)ぼくの人生には関係ないことだ。たまたま血の繋がり「だけ」を拠り所にして同じ家に住んでいた人間同士なんだから。そもそも家族同士が仲良くしなきゃいけないなんて法律は無い。家族の絆を強要するな。

隣の芝生は青い、という表現をよく目にする。自分と違う環境に生きる人のことが羨ましくて仕方なくなるアレだ。どこまでいっても、結局人は他人と比較することからは逃れられないんだと思う。上に書いたような生育環境のせいかは分からないが、ぼくは強烈な劣等感を常に感じながら生きている。手に入らなかったものを数え、自らの欠点を他人と比較し、あのとき行動しなかった自分を呪い、誤った行動をした自分を呪っている。自己肯定感を高めることは非常に困難だ。どうしたら幸せになれるのだろう。

ひょっとしたらぼくには優れた点が一つくらいあるのかもしれないと考えることもある。しかし世の中は広く、ぼくの上位互換がありとあらゆる場所に存在していることを目の当たりにした瞬間、やはり自己評価は地に落ちる。他人は他人、自分は自分とわかってはいるが、しかし比べることを止められない愚かさ。きっとぼくは何を手に入れても何を成し遂げても幸せになれないんだ。

情報化社会は人の欲望を刺激し、容易に心の奥に潜む劣等感を逆撫でする。格差が可視化され、所詮自分はお山の大将だということを気付かされる。いくら金を稼いでも不労所得で生活する人を見ては労働者という身分を嘆き、不労所得で生きる人は生きている実感の無さや労働の歓びの無さを嘆くだろう。嘆かないか。

幸せになりたい。