表題の通り。昔のスマートフォンをケーブルに繋いだら、学生時代の思い出が残されていた。中でも笑ってしまったのが、2016年の1月6日から14日まで書いていた小説が発掘されたことなんです。供養のためにここに載せておきます。
【無題】
最後の電車が視界から消えて駅は静かにその歴史に幕を閉じた。かつては毎日嫌という程たくさんの人たちを乗せて、夜になればその人達を家まで乗せていくこの電車も今日で廃線となった。僕がこの街に引っ越してきて初めて目にした黄色の車体は、もう見ることはないのだ。駅は寂れたこの街の中心部にあった。ここ数週間続く雪のせいで辺りは灰色の絨毯に覆われていた。雪搔きする人も既に消えたこの街は、数ヶ月以内に完全に雪に埋もれてしまうだろう。数年前から使われていないホームの蛍光灯がふつりと消え、また駅が少し暗くなった。
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「なんだ、まだ居たの」
紅茶を飲みながら声をかけてきたのはこの駅の駅長、コウタだった。彼が駅長に就任してから毎日被り続けている帽子は、彼の灰色の外套とあまりにも不釣り合いで、毎回見る度に笑ってしまう。その度に彼は何か言いたげな顔をするも自覚があるのだろう、特に怒られることもない。中学校を出てすぐこの職に就き、今年で三年目になる彼の仕事は単調だ。1日に東京との間を二往復する電車が近づいてきた時と出発する時にアナウンスをしたり、切符の買い方を教えたり。電車の時刻表も「午前」と「午後」だけなので、具体的な時間は誰も知らない。なので彼は駅の一番高いところにある部屋に篭り、ラジオや昔のレコードを聴きながら線路の先に電車の姿が現れるのを待つ。紅茶を飲みながらときどき煙草を吸って、電車が来たらアナウンスをする。1日の終わりには日誌を書いてすべての電源を落とし、戸締りをしてすぐ近くの家に帰る。
「今日で最後だからほら、お土産」
「お、気がきく!ありがと!」
紅茶が好きな彼に「退職記念品」として渡したのは、彼が大好きなアールグレイの茶葉だ。いまでは貴重品となった嗜好品の茶葉の中でも最も人気のあるアールグレイは、ちょっと昔までは信じられないくらいの高値で取引されていた。同じ重さの金と交換できるくらい貴重だったアールグレイだったが、ちょうど去年の今頃に近くのスーパーの倉庫から大量に発掘されたらしく急に値が下がった。なのでアールグレイを蓄えていた金持ち達にとってはかなりの大打撃だったらしい。紅茶が好きな彼はきっと喜んでくれるだろうと思った。彼が予想どおりの反応をしてくれたので私は嬉しかった。いままで見たことのないくらい幸せそうな顔をしながら茶葉の入った缶をいろいろな角度から眺める彼の表情を見ているだけで、わざわざ隣町まで買いに行った甲斐があったと思った。
私がこの街に住むことになったのは偶然配属がここになったからであって、自ら望んでこの街にやってきた訳ではない。しかし住めば都と言う諺があるように、知らない街でも住んでみたらまるで自分の故郷のように思えるもので、まるでずっと昔からこの街に住んでいたような気さえしてくる。初めてこの地に足を踏み入れたのは5年前で、前住んでいた成城学園前とはまるで違う環境に驚いたのをよく覚えている。ここの道は曲がりくねっていている上に高低差もあって、自動車が無くては生活できないのではとまで思わせるほどの田舎だった。その時にはすでに人口は激減していたのだろう。駅裏の商店街は軒並み閉まっており、平日休日関係無く駅前のロータリーに人の姿は見えなかった。まるで全ての生命活動が終わってしまったような街であったが、その頃唯一営業している喫茶店が駅の中に入っていたので、私はそこに足繁く通うようになった。コーヒー派の私にとっては自然なことであった。
駅の利用者は殆どいないようで、改札もホームも一箇所しか使われていなかった。全体的に薄暗い雰囲気だったが、それでも私がこの駅に愛着を持てたのは、喫茶店のコーヒーと音楽のおかげだった。昔流行っていたらしい外資系のコーヒーショップの跡地に入った違法店だったが味は確かだった。外資系のコーヒーショップが潰れたときに最後まで働いていた店員がこの場所から離れようにも離れられず、とうとう店の設備をそのまま使って喫茶店を開いてしまったらしい。一流の焙煎機や抽出機を使ったうえ、彼のオリジナリティを織り込んで淹れたコーヒーはかなりのものだった。
ある日その店で仕事という名の暇つぶしをしていると、子供の頃聞いたことのある曲が流れているのに気づいた。よく祖父が部屋で流していた曲だ。居ても立っても居られず、店長に曲のことを尋ねたところ、この曲は俺が流してるのではないので曲名は分からないとのこと。それでも気になったので詳しく聞いてみると、いつも駅長が気分で選んだ曲を流しているらしい。それならばと私は駅長を探して直接聞くと言い残し、店に仕事道具を残したまま改札を通り抜け、奥にある駅長室につながる扉を開けた。中に職員は一人もおらず、私の行いが誰に注意されることもなかった。がらんとした駅員室を抜け、一番奥の駅員室の扉に近づいていくにつれて聞こえてくるあの曲。扉に手をかけて遠慮がちにゆっくりと開けると、そこには驚きのあまり開いた口がふさがらない様子の男の子が座っていた。駅長のものだと思われる豪奢な革張りの椅子に腰掛け、一人前に帽子まで被っていた。
「駅長さんどこに行ったか知らない?」
「僕ですけど」
「そうじゃなくて、この駅の中で一番偉い人に聞きたいことがあるの」
「駅長は僕ですよ」
彼は一向に譲らないので、仕方なく話題を切り出すことにした。
「喫茶店でさっき流れてた曲はここから流してるって聞いたんだけど、何て曲なの?」
「さっきのですか?さっきの曲は……ええと、たぶんこれかな?」
そう言うと同時に彼は手馴れた様子でレコードの針を少し外側に落とした。その途端急に流れていた曲が止まったので、窓際でお湯の沸く音だけが響いた。ボリュームを徐々に上げていくと、あの喫茶店で流れていた曲が聞こえてきた。
「アントニオ・カルロス・ジョビンのWaveという曲です。ボサノヴァの代表曲ですね」
フルートのイントロから始まって、波の音のようなピアノが遠慮がちにテーマを弾き始める。バックでは溜息のようなストリングスがハーモニーを奏で、まるで地中海の砂浜にいるような気分にさせてくれる。改めて部屋の様子を見てみると、机の上には山積みになった何かの資料とハリネズミのような灰皿、そして銀色のティーポットと真っ白なマグカップ。その向こうには不審そうな目をこちらに向けた中学生くらいの男の子が一人。椅子には年季の入った外套と小さな皮の鞄が掛かっていた。壁には駅員が被っている帽子が大事そうに飾ってあり、そこだけ不思議と静謐な空気が漂っていた。部屋の反対側には巨大なスピーカーが二台あり、その横には綺麗に整頓されたLPが壁一面に並んでいた。
「君が毎日流してるの?」
「そう、ですよ。その日の天気とか気分によって変えてます」
窓の外を見てみると、どんよりとした雲が空一面を覆っている。
「この曲が今日の天気にピッタリだと思ったの?」
「いえ、今日はボサノヴァを聞きたくなっただけです」
ふうん。確かにこんな天気のときに陰鬱な曲を聞くのはあまり精神衛生上よくないと言えるかもしれないと思った。
「今更ですけど、貴女誰なんですか?」
彼は不審者を見るような目でこちらを見据え、腰の拳銃に軽く手をかけた。
「私はこの曲の名前を知りたかったの。ここの駅長さんに聞けば分かるって喫茶店のオーナーに言われたから、急いで聞きに来ただけ。別に強盗の類じゃないわよ」
「嘘ついてませんか?」
「つく訳ないでしょ。強盗ならもっとお金ありそうなところに入るし」
そう言うと彼は少し悩んだような顔をして、何か納得いかないような顔をしつつも私の言うことを信じてくれたのか、拳銃から手を離して元の椅子に腰かけた。
「分かりました、貴女の言うことを信じます」
正直なところ、この時にはまだ彼が本当に駅長なのかどうかを疑っていた。しかし線路の向こうに電車が現れ、テキパキと行動する彼の姿を見ているうちに、ひょっとして本当に駅長なのかもしれないという思いが湧いてきた。それから今に至るまで、私は本当に彼が駅長なのか確信を持てないままでいる。
その日は彼に礼を言ってから喫茶店へ戻り、仕事に使う資料を整理したり本を読んだりしていた。店には心地よいジャズが流れ、店長も椅子で古い雑誌を読みながら流れる音楽に耳を傾けていた。そこには静かな、そして細やかな幸福の時間があった。
結局その日の午後の便は来なかった。
幸福は空気のようなもので、失うまでその重要さに気づかない。それなしに生きていくことはできず、かといってある一定量を超えると体に毒となる。私がこの街で過ごした日々は当時そうとは気づかなかったものの、幸せ以外の何物でもなかった。いや、ある意味不幸せだったかもしれない。
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最後の電車を見送ってから私たちは駅長室に戻った。彼が分厚い日誌に何かを書き込んでいる間に私は壁に並んでいるレコードを眺めていた。ここに来てから色々な音楽に出会った。クラシック、ロック、ジャズ、ボサノヴァ……思い返せばきりがないほど沢山の音楽を彼は教えてくれた。
ここで小説は終わっている。1月14日の午前10時ジャスト。当時のぼくは何を考えてこの文章を書いていたのか、今となってはもう思い出せない。ただ今も昔もこういうテーマは好きなんだなぁと思った。
以上、ただの供養でした。