大阪生活

大阪生活の記録

ミッドサマーを見た直後の感想

日付が変わった頃から雨が本格的に降り始めた。レイトショー帰りのぼくはローソンの駐車場にいて、車の中でさっき見た映画について考えながらこれを書いている。カメラを止めるなを見た直後にも同じように文章を書いた気がするけれど、あの時は酒の勢いで散々な文章だった(怖くて読み返せていない)。

「この映画はかなりの衝撃作ですよ」とある人から聞き、ついつい見に行ってしまったが運の尽き。映画館の大画面じゃ目も逸らせないし耳も塞ぎきれない。つらいよーと思いながらなんとか最後まで見ることができた。思うにぼくは今まで映画館に行くのは気持ちよくなるためで、だからどちらかと言うと喜劇的な作品にしか足を運んでこなかった。事前情報を頭に入れずにノーガード戦法で映画と向き合ったのは初めてかもしれない。

本題に入る。この映画はとにかく最初から不穏な空気感の映画だった。家族を亡くした女性がふとしたきっかけでスウェーデンへ行くことになったところからこの映画は始まる。留学生の出身地であるコミューンに交際中の彼と共に足を運んだ彼女は、恐らく常識の範囲外のさまざまな出来事を直視することになる。

その描写がとにかく直接的で目を覆いたくなる。普通に人が死ぬし、なんか嫌だなあという予感は大概現実のものになる。凄惨な描写に不慣れな人間なので衝撃は大きかったし、そういった描写が定期的に挟まれるので精神がゴリゴリ削られていった。

最初は画面の構成とか色に注目していた。Sigmaのfpで取り上げられていたティールアンドオレンジ、まさにこの映画ではオレンジと青が強調されていたように思う。画面の隅々まで綺麗に解像されていたし、歪みもほとんど見られなかった。いいレンズ使ってるなぁ…と思ったけど途中から余裕が無くなった。まあそれはいいです。

時間が経つごとに人が減っていって、先に帰っただとか逃げたとか色々な噂が立つんだけど嫌な予感しかしないし、登場人物も薄々感づいてるのが分かって、けれど彼らにはどうしようもなくて、地獄ってこんな感じなのかなって思った。最初は観光客気分だったのに完全に俎板の上の鯛で、結局コミューンの一員になるか死かの二択。最終的に主人公はコミューンに取り込まれて、彼女の交際相手は儀式のラストで殺されてしまった。まぁそうなるよね、という流れだった。

誰がいつ死んだとかどんな形で死んだのかについては触れないし触れたくない。ここでは感想みたいなものを書いていく。

・90年に一度の夏至祭という描写

留学生やコミューンの人々の言葉が正しければ、この夏至祭が開催されるのは90年に一度。ということは、前回の夏至祭が開かれたのは90年前になる。時代にして1930年になるし、その前の夏至祭は1840年。ひょっとしてその頃にはこういったコミューンが割と存在したのでは?という疑問。流石に大袈裟だとは思うけど、ある年齢以上の人間が捨てられたり、近親相姦を避けるため定期的に女を外から連れてきて、外のコミューンの人間の子供だけを取り込むというやつ。冒頭でバイキングについて語ってた彼らの言葉が終盤でふと思い出された。

・彼らにとっては幸せそのものでは?

全員で食事をとり、年齢別に分けられているとはいえ同じ場所で寝て、悲しい時には一緒に泣き、嬉しい時には一緒に喜ぶ。まさに都会に欠けているものそのもので、田舎のイメージそのもの。外部から見たら近寄りがたいけれど、主人公が経験したダンスのような「通過儀礼」を経てコミューンに受け入れられたらそれはもう安心できるでしょう……親と妹を亡くし、家族を無くした彼女にとっての居場所はコミューンであり、外への思いを断ち切るためには交際相手に変えてもらうしかなかった。話は脇道に逸れる。夏至祭で行われていた儀式のうちどこまでが日常的に行われているかは不明だけど、そう頻繁に行われているものではなさそう。故にコミューンの存在は表に出ず、彼らは守られる。ただ幾つか気になることがあって、それは宿舎?に掛けられていた無数の女王の写真。90年に一回だったら多くても3枚くらいだよね?だからあのダンスはきっともう少し頻度が高いのでは?となると儀式全体を行うのは90年に一度、部分的にはもっと高頻度で行われているのでは??

・集合写真のカメラがハッセルブラッド

ハッセルブラッド知ってるよね。スウェーデンの中判カメラ。終盤のシーンで使われてて思わず声が出そうになった。監督はよく分かってる。

ああ、なんか疲れてきちゃった。雨はいつの間にか止んだみたい。一旦帰って、明日また続きを書こう。