大阪生活

大阪生活の記録

ないものねだり

昔から兄弟でいろいろと比較されてきた。身長、体重、友人の数、学校の成績、趣味、その他諸々。そのせいだと思うが、ぼくは家族に対して誰一人として良い感情を持っていない。常に社交的な弟と比較され、尽く卑下されてきた。23年間も。そのせいで実家の居心地は最悪だった。そう、なので大阪に来てからはそういった人たちと地理的に距離を置けて、心の底から実家を離れられてよかったと思っている。もう二度と帰りたくない。

そもそもいくら兄弟だろうと別の人間なんだから比較することは止めるべきで(とは言うものの確かに社交的なことは褒められることだろうけど)、非社交的な人間に対してもっと弟のように社交的になれと叱りつけるのはナンセンスだ。別の人間なんだから。家族の誰がどうなろうが(生きようが死のうが)ぼくの人生には関係ないことだ。たまたま血の繋がり「だけ」を拠り所にして同じ家に住んでいた人間同士なんだから。そもそも家族同士が仲良くしなきゃいけないなんて法律は無い。家族の絆を強要するな。

隣の芝生は青い、という表現をよく目にする。自分と違う環境に生きる人のことが羨ましくて仕方なくなるアレだ。どこまでいっても、結局人は他人と比較することからは逃れられないんだと思う。上に書いたような生育環境のせいかは分からないが、ぼくは強烈な劣等感を常に感じながら生きている。手に入らなかったものを数え、自らの欠点を他人と比較し、あのとき行動しなかった自分を呪い、誤った行動をした自分を呪っている。自己肯定感を高めることは非常に困難だ。どうしたら幸せになれるのだろう。

ひょっとしたらぼくには優れた点が一つくらいあるのかもしれないと考えることもある。しかし世の中は広く、ぼくの上位互換がありとあらゆる場所に存在していることを目の当たりにした瞬間、やはり自己評価は地に落ちる。他人は他人、自分は自分とわかってはいるが、しかし比べることを止められない愚かさ。きっとぼくは何を手に入れても何を成し遂げても幸せになれないんだ。

情報化社会は人の欲望を刺激し、容易に心の奥に潜む劣等感を逆撫でする。格差が可視化され、所詮自分はお山の大将だということを気付かされる。いくら金を稼いでも不労所得で生活する人を見ては労働者という身分を嘆き、不労所得で生きる人は生きている実感の無さや労働の歓びの無さを嘆くだろう。嘆かないか。

幸せになりたい。